あの人・この人  緒方善政氏(60回生)

八女工業高校陸上競技部監督 緒方善政氏(60回生)

今回は、本企画初回として、八女工業高校(以下八女工)陸上競技部監督(以下監督)として当校を4×100㍍の強豪校に育てられた元久商陸上競技部出身の緒方善政氏と、同様に久商陸上競技部員を経て久留米市陸上競技協会に所属して、長年久留米市の陸上競技振興に携わられた吉村篤氏(57回生)をお招きして、同じく陸上競技部で汗を流した山﨑正廣氏(69回生)がお話を伺いました。

山﨑氏 本日は大鵬の企画「あの人・この人」の為にお越し頂きましてありがとうございます。今回の趣旨は、八女工監督として1971年から1998年にかけて、インターハイで4×100Rで優勝5回、2位6回、3位1回、入賞2回、4×400Rで優勝1回、2位2回、3位2回、入賞2回のリレー強豪校に育てられた緒方先輩と、その緒方先輩の活躍・ご指導ぶりを久留米市陸上競技協会副会長として長年見てこられた吉村先輩にお話を聞かせて頂きたいと思いますので、よろしくお願いいたします。まず、緒方先輩と吉村先輩は久商陸上競技部ではお知り合いだったんですか。

緒方氏 いや、吉村先輩が3年先輩にあたるんで直接はなかですが、私が八女工監督や退職後に審判長しよった時には、久留米ではですね、吉村先輩が中心だった。先輩が久留米の陸上競技場では役職がアナウンサーで、私が審判長だったから「頼むばい」ち。

山﨑氏 初めに、久商への進学を決められたきっかけなどをお話いただければと思います。

緒方氏 昭和20年代は大学にいく時代じゃないから。高校進学もまだ3割か4割くらいしか高校に行っていない時代ですからね。当時は旧制中学よりもどちらかといえば久留米商業、八女工業ちゅうのが難しいというイメージがありましたね。久留米商業というのはですね、昭和20年代、私は昭和29年の時が中学でしたけど、もうやっぱ憧れの学校やったですよ。勉強はでくるし、スポーツはでくるし、それから名門ですかね。久留米では明善高校とか久留米付設とかありましたけど、昭和29年当時に学校を選ぶときはですね、この二つよりも、まず最初に久留米商業がトップやったんですよ。だからですね、名門中の名門やったんですよ。羽犬塚の田舎からですね、久留米商業というたらですね、進路指導の先生が「ちょっと無理ばい」ち言う時代。

当時の私は、久商に入ってから当時有名やったゴム三社、ブリヂストン、日本ゴム(現アサヒシューズ)、日華護謨(現ムーンスター)にいきたいなぁち思うたとです。それで先生に「久留米商業ば受けたい」ちいうたらですね、「お前じゃ通らんぜ」ち言われて、そういう時代やったですよ。

  それと、当時の羽犬塚は、八女郡で校区外やったんです。だから、久留米で兄が住んでいたところに住所変更してから受験したです。

山﨑氏 先生が久商を受けられるときに大学進学まで考えておられたんですか。

緒方氏 全然考えてなかった。100%考えられなかった。久留米商業からゴム3社に行くと思いよったです。当時は戦後の厳しい時ですね、友達の間では、このゴム3社が我々の憧れの就職先やったんですね。

    それが高校3年間で変わってきたですね。当時柔道部の顧問で石橋和男先生がおられたんですが、その先生が一言ですね、「緒方、お前は体育だけようでくるね」ち言われてね、それで「体育の先生になったらどうか」ち言われて、そして初めてですね、日本体育大学に行こうかちいう気になったですね。それまではですね、吉村先輩も西南に行っちゃるけど、その時分に大学にいくというムードはまだなかったですよ。

山﨑氏 学校生活でのエピソードとかありますか。

緒方氏 ああ、やっぱ久留米商業ちゃ、やっぱ面白かったですねぇ。あのですね、学校訪問にですね、石橋正二郎さんが学校にみえるんですよ。

山﨑氏 石橋正二郎さんがおみえになってたんですか。

緒方氏 来よったですよ。年に2、3回みえよったですよ。前もって、「明日、石橋先輩が来るげなぞ」ち言ったらもう、もう校長、教頭が10人ばかりずらーっと来るんですよ。そうすると、その日の朝はですね、道具ば揃えて先生がね、「おい廊下ばふけ」ち。そういう時代やった。それを一言も文句も言わずにね、「はいっ」ちいうてやるという、「おい先輩が来るげな」ち。なんとなくそういう時代やった。昭和時代やから。それから政治家じゃ石井光次郎氏がおるしね。

山﨑氏 我々の時には石井好子さんが来てましたよ。親父さんが来るんじゃなくて。

吉村氏 シャンソン歌手で有名でしたからね。

緒方氏 私らはいつも言いよったです。やっぱ石橋正二郎さんと石井光次郎さんちいうのは、「学校あの正門の両脇にちゃんと銅像ば作らにゃいかんね」ち。冗談やけどね、飲んだらね、すぐ言いよったです。「作らないかん」ち。「礼をして入れ」ち。それぐらい昭和時代は。

吉村氏 私は、三井郡の中学から久商に入ったんですが、久大線で南久留米駅で降りてからずっと行列ですよ。三年生と一年生、自然と序列が決まって縦一列で、今の櫛原中学のところまで歩いて行きよりました。

山﨑氏 櫛原だったんですか。

吉村氏 はい、今の櫛原中学のところ。入ったときね、昭和27年4月。

山﨑氏 そうですか。それじゃずっと櫛原だったんですか。吉村さんのときは。

吉村氏 いいえ、それから市の改革があって、今ではえーるピア久留米とかできとりましょうが。今度はその場所に校舎があった諏訪野町に。そこに新築されて2年、3年の時にその新校舎に。

山﨑氏 緒方先生にお聞きしたいのは、日体大を卒業してから鞍手高校で教職に就かれたあとに八女工業に行かれて陸上のリレー競技で輝かしい実績を残されましたが、その時に「久商で」という夢は全くなかったんですか。

緒方氏 ありましたけど、久商自体が陸上競技に興味がなかったんじゃないですか。

山﨑氏 そういうことですね

緒方氏 柔道かなんかならよかったでしょうけども。石橋和男先生と姉川先生の二人しかおらんかった。後で山口(常)先生らが入ってきた。それはもう久留米商業から誘いがあれば一番嬉しかですよ。

山﨑氏 そうですか。それは残念でございました。

緒方氏 結局、競技ていうのができなかったと思うんですよ。陸上競技を教えるのはできたでしょうけど、一人ではでけんかったんじゃないでしょうか、と思います。

山﨑氏 次に私が先生にぜひお伺いしたかったのは、八女工業で短距離にターゲットをあてられましたでしょ?これはどう狙いだったんですか。

緒方氏 陸上競技はですね、短距離、中距離、長距離、それから投擲、跳躍とあるわけですね。どうしても昔の選手は全種目やりよったんです。で、その後自分の専門種目にいく。それから陸上競技で一番人気があるのがリレーですね。世界陸上でも4×100m・400mリレーが最後の種目ですね。

山﨑氏 花形ですもんね

緒方氏 それで目がそこにいくちゅう感じがあるわけです。それとやっぱり公立では日本一はなかなか作りにくいんですよ。ところがリレー競技では、100mば全国で50番くらいんとば5人揃えたらですね、だいたい勝てるんですよ。日本一になる可能性があるんですよ。

山﨑氏 それは何か根拠があるんですか

緒方氏 いや、それはもう自分の経験で。

山﨑氏 オリンピックで日本チームがメダルをとったというのはそういうことですね。リレーだからできることですよね。一人ひとりの成績は決して上位ではないですからね。

緒方氏 だから、結局八女工業で人を集めるというとですね、日本一になるために、短距離の日本一が東京におるとを獲りにいってもですね、獲れんのですよ。特に実業高校は。そうすると久留米の一番、広川の一番などを集めてくるとですね、それをうまくやると、日本一にとどくわけですから。それでリレーは5回優勝して優勝回数は一番多いし、高校新記録も43:00を破った41:12というタイムで十何年もっとったです。日本一になるにはその方が早いと。それと筑後地区は昔強かったんですよ。この地区で3番以上になるとだいたいインターハイに行きよったんです。福岡県で一番レベルが高かった。

ちょっと法螺っぽく聞こえるかもしれんのやけど、最初から日本一、日本一が目標だったですね。

山﨑氏 先生の胸のうちに。

緒方氏 目指すのは日本一だと。やっばり59回生の中尾隆行さんを身近にみてきておるしね、第6回別大毎日マラソン10マイルの部で高校日本記録を破った先輩が、その後に中京大学の監督になられて。こういったことを見てきておるからですね。俺でもやれるんじゃないかと。

当時はですね、三潴高校の立石先生がフィールド競技で日本一ですよ。それから長距離は私の日体大の後輩ですけど大牟田高校の大見君が、日本では一、二番の駅伝のチームやったです。そして立石先生も日体大なんですよ、共に体育の教員やから。立石先生が私の隣の学校やし、大見君が大牟田高校やし、ここにおると日本一にはなられんかと、

山﨑氏 それで狙いが短距離なんですね。そういうことですね。

緒方氏 みんな日本一を狙ってたんじゃないですか。

吉村氏 あのう、今でもそうなんですが、福岡県は4つの地区に分かれておりますが、まず福岡の方が中部というような言い方をしますね。またこちらの方を南部、それから北九州と筑豊と4ブロックで、県のなかでも南部はレベルが高い地域だと我々は自負していたんですね。だから南部地区で第一関門を通過すれば、県大会に行って、県大会を通過すれば4県対抗というて福岡、佐賀、長崎、大分まで4県のね、最後の関門が待っているわけですからね。だからまず南部で勝ち抜く、そして憧れの全国大会とこうなるわけです。関門があるわけですよね。それをちゃんとくぐり抜けるちゅうのは、そういった面での地区での活動がやっぱ基礎になっているんですね。それに緒方先生の場合は、久商から大学に行かれて、大学に入った時からずっと教職の道に進む。そして、自分も、本人も陸上をなさっておられたから、その道にということで自然と行く先が決まっていたんですね。そして、いよいよ学校現場に配置になってからは、学業に特化しながら、そして部活にも特化してということで、相当のエネルギーを突っ込まれたのは事実ですね。それがこの全国大会の優勝や上位入賞というようなことに反映されているわけですね。

緒方氏 それから、昔からそうですけれども、公立高校は点数を取らないと入れんから。日本一を勧誘してもですね、点数が何点か悪かっても落とすんですよ。

山﨑氏 採らないわけですね。

緒方氏 職員会議で決める。

山﨑氏 じゃあ裏で隠れて採るようなことはできなかったんですか。

緒方氏 できない。もし取ったら落ちる。久留米商業の柔道軽量級で強かった重岡孝文君が、筑波大学から鹿屋大会に出場したんですけどね、成績はものすごく良かった。八女工では中野浩一なんかはですね。良山中学ですよ。学校で1・2番の成績だったですよ。頭良かったんですよ。

山﨑氏 全国トップになるための一番のポイントは、人材をいかに取ってくるかなんでしょうけど、その辺のご苦労なんかはいかがでしょうか。

緒方氏 中野浩一なんかはですね。良山中学ですよ。学校で1・2番の成績だったですよ。頭良かったんですよ。で、本人も明善に行くと言っていたのをですね、私が勧誘に行ってひっくり返した。中野はうちで陸上しながら九州大学に受かりよったですもんね。両立しよったわけですよ。そんなことも昭和の時代はなんとかできたけど、平成からはちょっと無理でしたね。情報があふれて、もう生徒、子供同士で情報を集めて、自分たちで判断、選択できるんじゃないですか。だから昭和の時代だからこそ集めることができた気がしますね。

山﨑氏 教師をしながらクラブ活動の指導をされるご苦労はどうなんでしょう。よっぽど好きじゃないとできないですね。あるいは責任感がないと。

緒方氏 学校の教員というのはですね。クラブ活動をやるのが当たり前なんです。公務として振り分けられるわけね。だから悪く言えばですよ、しない人は年に5回くらいしか出てこずにちょっと「頑張れよ」ち、また野球部のようにほぼ1年中出てる人がおるかもしれない。でもだいたい待遇などは一緒。

山﨑氏 先生はだいたい毎日練習を見にグラウンドに行かれてたんですか。

緒方氏 だいたい行きよったです。それで、おかしな話ですが、大会は土日でしょうが。土日試合して翌日の月曜日の授業では最初ウォーミングアップして、「はい、今日はソフトボールの試合やろう」ち、それで生徒は試合しよるでしょうが、自分は椅子に座っとるわけ。そしたらね、生徒が言うんですよ。「先生、時間ですよ」ち。ちゃんと並んで「気をつけ。礼」で終わる。試合中に私は寝とるわけです。先生を起こして終わるんですよ。私はね、「涙が出るちゃこのことやな、生徒は偉いな」ち。私が昼寝しとるとを肩叩いてね、「時間が来ました」ち、そげなことが、35年間です。

山﨑氏 教師冥利に尽きるということですね。

吉村氏 緒方先生は、その時分は元気バリバリの時代だったと私は思いますよね。先生自身も年齢が若いし集中的にできて、生徒も恩師の顧問の先生が一所懸命にやってくれるからそれに応えにゃならんということですが、この辺りを緒方先生の人生の中では、指導、教育の冥利につきる年代だったろうなと思うんですよね。結果として全国制覇を遂げるということでね。そう思いますね。

緒方氏 やっぱり生徒が良かったですね。とにかくですね。

吉村氏 緒方先生の場合は、陸上競技者の中で功績のあった人に付与される、秩父宮賞があり、他に18歳未満の中学生・高校生のよき指導者として特に顕著なる者に授与される平沼記念賞があり何れも受賞されています。

おめでとうございます。

山﨑氏 その他に陸上競技との関わりとかはございますか。

緒方氏 50歳くらいから審判長をやりよったです。先任の立石先生が52年頃に退職されてから、その後を私が審判長を。だから30年か40年、久留米で審判長をやっとったです。

吉村氏 陸上競技にも、実業団から中学校、小学校、高校の大会とありますけれども、高校の大会に緒方先生の臨席がないということはないですね。必ず所定の場所にちゃんと着席しておられて、競技の進行状況を見張っておられました。それ以外にも多くの大会の審判長をされました。私が競技後の表彰式のアナウンスをする中で緒方先生が表彰をされておったわけです

山﨑氏 それは教職をしながらそれやられていたわけですか。教職をやられている場合の役割と退職されてからの役割は何か違いがあるんですか。

緒方氏 高体連の試合は高等学校の先生だけで審判するとやないとです。先生だけではできない。だから一般社会人の先輩たちにもお願いするわけです。

山﨑氏 では、久留米陸協にお願いすると。

緒方氏 「○○名くらいのご協力をお願いします」と

吉村氏 先生方が中心ですが、足らない分とかを、会社員もおられますし、自営業の方もおられますし、陸上競技に関わっておられる方々で構成して審判をやってですね。

山﨑氏 久留米市陸上競技協会副会長を吉村さんは昨年まで、88歳になられるまでやられたということでしょう。何歳からですか。

吉村氏 年齢的には40そこそこの年齢やったと思います。

山﨑氏 あぁそうですか、それじゃ40年以上携わられたんですね。今日お二人にお伺いしましたのは、やっぱりそこら辺なんですよね。ある一定年齢から80後半まで何十年間も審判や大会の運営をボランティアに近いお仕事をやられてこられたこと。

緒方氏 もう誰でもです。我々だけじゃないとです。

山﨑氏 今まで自分たちが陸上競技に携わってきたんで、そのお礼だとかの気持ちでできるのかもわかりませんけれども。

緒方氏 審判だけは、年度初めに登録しているんですよ。資格をもった審判の登録制でないとできないし。資格には3級、2級、1級、終身1級と段階があるわけですよ。それで30年以上くらいやらんと1級になれんわけですよ。

山﨑氏 年数が必要なんですね。

緒方氏 だから、完全にある程度はボランティアですね。全員ですよ。それは陸上競技だけではない、バレーボールでもバスケットボールでも一緒です。金はよそからは入らない。金銭が他から入ると違反です。

山﨑氏 教師を退職された後のお話もうかがえますか。

緒方氏 38年間教員して、八女工監督を35年間勤めて辞めたあと、学校には校外指導者というのがあるんですよね。それを20年勤めたです。辞めてすぐだから、80歳まで。

山﨑氏 それはどういう立場になられるんですか

緒方氏 県から委嘱される学校の校外指導者で。年1回、手当てみたいなものが年間いくらとしてわずかに貰えます。それで60歳で辞めて80歳まで。正式には学校外指導者ですね。これが現在の文部科学省になってからはクラブ活動外部専任ということになった。

山﨑氏 その期間は、その監督という立場でやられていたわけですか。

緒方氏 その監督よりどちらかと言えば、コーチですね。

山﨑氏 長年教育に、そして陸上競技振興に携わってこられてご苦労さまでした。いろいろとおうかがいしてまいりましたが、来年には緒方先生は、大同窓会で米寿の表彰の年です。お元気にご参加下さい。

緒方氏 私もですね、同窓会にはこの10年間は来てないような気がします。それまではですね、15年間くらいは毎年来てたような気がしますが、この10年間は大同窓会から足が遠のきました。

山崎氏 ぜひご参加下さい

吉村氏 来年の米寿、おめでとうございます。またお世話かけますけども、おめでたいお祝い事ですから。緒方先生、来年は先生が米寿だから、私ども一般参加といいながら、うれしいですね。

緒方氏 同窓会で会いよったですね。

吉村氏 ああとかやあとかいうかんじでね。

緒方氏 来きるやろか。もうヨボヨボしょってですよ。

吉村氏 大丈夫。