弁護士が作った久商 久留米商業高等学校前史
はじめに
市立久留米商業高等学校は、全国的にも数少ない市立の商業高等学校で、2026年に創立130周年を迎えます。
前史を調べてみようと思ったきっかけは、本校が県立校ではなく市立校なのかという疑問がありました。
なぜならば、令和7年度の全国商業高等学校校長会の会員数は公立、私立を合わせて1,277校*1あり、商業科を併設する高等学校を含んでいます。その中で公立校のほとんどが県立校であり、市立の商業高等学校は全国にも数えるほどしかありません。それなのに、なぜ久留米市に、全国的にも数少ない市立商業高等学校が設立されたのか、設立にはどのような契機があり、どんな経緯があったのか、という疑問です。
そして、前史をまとめている中で、商業学校の創立者が実業家ではなく松田正定という弁護士(当時は代言人という名称)で、その後を引き継いだのが、吉田惟清(よしだ のぶきよ・これきよ)弁護士だったのかという新たな疑問がでてきました。
松田正定弁護士が作った、私立久留米商業学校設立への素朴な2つの疑問を解き明かすためには、商業学校が創立された背景には何があったのか、また明治時代は、そして文明開化とは何だったのかにも触れながら本校創立前史をまとめていく必要があるのではないか、そんな思いから、久留米商業高等学校前史をまとめてみました。
本稿の構成は、はじめに私立久留米商業学校の設立から市立久留米簡易商業学校設立までを第1部として、第2部で文明開化、複式簿記と民法、商法等の導入経緯などを述べたいと思います。
【注釈】
*1 全国商業高等学校校長協会HP 小川孝協会長挨拶より引用
弁護士が作った久商
1.明治時代の商人文化と文明開化
明治初期以前には商業や工業などの実務の教育機関はなく、商家奉公や職人の徒弟制度がその役割を代行しました。義務教育制度が施行されてからも、「商人の子に教育はいらぬ」と言われる風潮が残っており、商業を志すものは、小学校を卒業してから店員として商家に住み込み、商売を実地に見習っていました。これを丁稚奉公といいます。当時は、丁稚・手代・番頭と修行を積んだ後に暖簾分けをしてもらうか、独立して自ら店を構えることが一般的でした。
特に、久留米では資産を持つ商家の子弟であっても野菜売りや飴売りなどの物売りをさせて、商人としての根性と商売の実際を会得させるという久留米商人独特の子弟教育方法がありました。明治の初め頃、久留米市の老舗書店だった菊竹金文堂書店(当時は書籍商二文字屋)の菊竹嘉市も少年時代に野菜売りをしています。
そして、日本の帳簿付けには「帳合法」と呼ばれる西洋の複式簿記にも劣らぬ優れた記録方法がありました*1。このような「商い」の文化がありながらも、当時の日本は、西洋の文化を積極的に取り入れて社会制度の欧米化を推し進めます。
西欧から、蒸気機関、各種機械の他、ガス燈などの公共インフラなどを導入すると共に、欧米の憲法、商法、民法などの法典整備も併せて進められます。民法の親族、相続は日本の習慣法を含めて編纂されて、商法及び民法の総則、物権、債権は欧米の法律を元に編纂されました。このように、西洋の文化、法規を導入して欧米列強に並ぼうとした背景には、徳川幕府が締結した欧米との不平等条例の改正を行う目的がありました。西欧の文明国からすれば、西欧並の法体系を持たない日本はトルコや中国と同列の半開国とされていたからです*2。
日本国民に西欧文化を広く知らせるために福沢諭吉が著した「西洋事情」や「帳合之法」をきっかけにたくさんの簿記書が発行されて、にわかに簿記ブームが起こります。東京都下の簿記学校は、1887年(明治10年)の26校から1890年(明治23年)には47校*3と大幅に増加しました。
久留米でも、このような文明開化に呼応するように、1888年(明治21年)7月5日に、久留米簿記学校が開校して、官制・銀行・商法の3学科を教え始めます。さらに1891年(明治24年)2月2日には、大石貞傅が苧扱川(おこんがわ)町3丁目(現本町)に私立変則商業学校を設立しました。
久留米市街図 明治25年

【引用】
*1 商法典の編纂と帳合法 田中孝治 「我国の江戸時代の商人も『帳合法』と呼ばれる進んだ簿記法を持っていた。豪商の中には、西洋の複式簿記に勝るとも劣らない優れた帳合法を有する者(家)があった」
*2 「文明」と「野蛮」の自他認識―近代日本の他者表象― 山口公一 「『最上の文明国』であるヨーロッパ諸国とアメリカに対して、『半開の国』として、トルコ・中国・日本などアジア諸国を「半開の国」とした」
*3 明治初期の簿記導入史の研究 久井孝則 「東京都における簿記学校の数であるが、明治10年の26校にくらべ明治23年には47校と倍近い数に増加している」
【参考文献】
明治初期の簿記導入史の研究 桃山学院大学経営学博士 久井孝則 著
「文明」と「野蛮」の自他認識―近代日本の他者表象― 追手門学院大学教授 山口公一 著
商法典の編纂と帳合法 愛知大学経営総合科学研究所 客員研究員 田中孝治 著
明治期における法編纂事業と条約改正について 金沢大学教授 樫見由美子著
久商百年史 久商百年史編集委員会
2.二つの研究所ができる
1888年(明治21年)7月5日に開校した久留米簿記学校と、1891年(明治24年)2月2日には、大石貞傅が開校した私立変則商業学校に続いて更に2校が開校します。1893年(明治26年)に商用簿記研究所と、久留米商業高等学校の前身となる商業学研究所の二つです。
前者は、中冨次郎が同志とともに、8月に通町3丁目岡益三方に開設しました。
後者の商業学研究所は、弁護士松田正定を主宰者として日吉町に設立しました。
設立にあたっては、個人として古川正次郎(漆器商・市会議員)、三谷有信(庄島銀行・市会議員)、山下教介、岡茂平(三池紡績綿糸商)、吉田惟清(弁護士・市会議員)、岩谷冑四郎(弁護士・市会議員)岸四郎など久留米の知識人・実業家の強力な財政支援と、第六一国立銀行をはじめに京町、櫛原、常磐、庄島、融通の各銀行、久留米紡績会社などが、松田が無報酬で営業上の法律相談にあたるという条件で寄付に応じ、10月21日に開業式を行い、同月25日から開講しました。
受講科目は、以下の時間割で行われて、相当レベルの高い内容であったことが窺えます。また、簿記学の授業は午前と夜間の二部制でその他は午後から夜間にかけて行う夜学校の性格がかなり濃い学校のようでした。
| 商業学 | 簿記学の部 | ||||
| 自午後3時半 至午後5時 | 自午後7時 至午後8時半 | 自午後8時半 至午後10時 | |||
| 月 | 英語、商業史 | 商用経済 | 商用会話、商品学 | 自午前9時 至正午12時 | 自午後7時 至午後10時 |
| 火 | 々 | 会社法 | 商業地理、経済 | ||
| 水 | 々 | 経 済 | 法学通論 | ||
| 木 | 々 | 商法総則 | 会話、商品学 | ||
| 金 | 々 | 手形法 | 々 | ||
| 土 | 毛筆書 | 破産法 | 商業地理、経済 | ||
束脩(入学金)五○銭月謝三○銭 二科以上束脩四○銭 10月中申込者ハ無束脩
その後、松田弁護士は柳河区裁判所の判事として赴任することになり、後任を吉田惟清弁護士に託しています。
3.私立久留米商業学校へ改称
1894年(明治27年) 6月16日に、商業学研究所は岩崎小二郎県知事の許可を得て、弁護士吉田惟清主監の下に私立久留米商業学校と改めます。
設立の主旨について吉田惟清は次のようにのべています。年誌では文語体で書かれていますが、内容を口語体で紹介します。
「久留米は九州の中央に位置し、人家が密集し人口濃密にして各種の物産に富み且つ周辺から入ってくる商品も多いので商工業も発展する様相を見せている上に、米穀取引所設立の動きもある(中略)そうであるならば商工業者は、進取の気力を刺激し奮い立たせてこの機運に乗り、広く社会の状況を見極めて改良進歩の効果をもたらすべきである。しかし、これを今までの商工業者にのみ任せるのでは進歩は遅くなるばかりである。(中略)学び得たものをよく発揮する商工業者の子弟を養成することを目的として、その成果を将来に期待する。この目的を達成するために商業学校を設立した」としています。
また、学校の教育方針について次のようにも述べています。
「商工業者の子弟に平易な学科を授けて将来世に出たときに役立つことを教え、且つ商工業が改良進歩することを望むものである。日頃から適切に教育を行い、世の中の進歩に伴って学術の成果を利用できる人物が巣立つことに努める。言い換えれば、『商界の将官士官を養成するにあらずして精鋭な兵卒を訓育するに在り』であって、目的がそのようなことなのであるから、当事者(商工業者)の子弟を生徒として望んでいる。また本校は生産に関係の無い高尚な学問を重んじる弊害を改め、青年が各々際立つ者として自営の生活を営み、職分を知り着実に活躍する健全な国民になるように期待する」と述べています。
この教育方針は、後の東京大学や神戸大学となる高等商業学校のように高度な商業知識を学び天下国家を云々するような人物を育成する学校ではなく、そうかと言って高等小学校に付設できる実業補習学校の初歩的な知識教育よりも高度な知識が学べる教育施設を設ける。つまりそれは、商工業の発展に実務で寄与できる実践的な人間を育成する簡易商業学校を目指そうとした吉田惟清の意志が「商界の将官士官を養成するにあらずして精鋭な兵卒を訓育するに在り」という言葉に表現されているように思います。
学校編成は、専科(法律部、簿記部、英語部)、普通科、簡易科の三種に分けられました。
| 科 目 | 週 時間 | 普 通 科 | 簡 易 科 | |
| 第一学年 | 第二学年 | |||
| 読 書 | 3 | 商 業 読 本 | 同上反漢書随意 | 読書1週3時間 |
| 算 術 | 4 | 珠算・四則応用 | 珠算・洋算 | 算術1週3時間 |
| 作 文 | 3 | 往復文、注文書、証書 | 同左並記事論説 | |
| 習 字 | 4 | 楷書、行書、大文字 | 楷書、行書、草書の細字 | 習字毎夜 |
| 商 品 | 1 | 商 品 学 | 同左 | |
| 商業地理 | 2 | 日本商業地理 | 外 国 地 理 | |
| 商業歴史 | 1 | 日 本 商 業 史 | 世界商業史 | |
| 経 済 | 2 | 経 済 原 論 | 同左 | |
| 図 画 | 1 | 毛 筆 画 | 同左 | |
| 法律大意 | 1 | 講 話 | 同左 | |
| 商業実践 | 1 | 講 話 | 同左 | |
| 修 身 | 4 | 商業志操及作法 | 同左 | |
| 会 話 | 4 | 会 話 書 | 同左 | |
| 専 科 | ||
| 法 律 部 | 簿 記 部 | 英 語 部 |
| 商業総則、会社法 破産法、手形法 法学通論、経済学 銀行論、民法 民事訴訟法、契約法 財産法、保証法 売買篇 | 商用、会社 銀行、家庭 鉄道、官用 単記、復記 欧文簿記 | 読み方、習字、綴り文 会話、作文、文法 書取、訳解、地理 歴史、翻訳、理科 生物、地学、化学 鉱物 |
※普通科、簡易科、専科の区分、資格、教科内容などは詳細不明
その他、毎月一回若しくは二回老練なる実験家聘し商工談話を聞く
▲授業時間及び束脩授業料
一 授業時間は昼間三時間と夜間三時間とす
但し日の長短及び就学生徒店務の都合により伸縮す
一 束脩(入学金) 金三○銭
一 授業料
専科 金二五銭 普通科 金二○銭 簡易科 金一○銭
校名を改称してから約40日後の7月26日には日吉町88番地から篠山町11番地に移転しました。
4.市への財政援助要請と挫折
生徒数の増加で手狭となった教場を篠山町33番地に移転しようとした頃に、同年7月から始まった日清戦争による経済事情の悪化で従来の寄付金が途絶してしまいます。
吉田は久留米市の有志を翠香園に招待して学校存続の困難な実情を訴えます。一同は当初困惑しますが、十二人の現職や元職の市会議員が賛同して第一回商議員会を校内で開きます。そして、運営資金の調達は、戦争の最中であることから、困難な寄付金募集ではなく市費による補助を願う請願書を久留米市に提出すると決議して9月5日に市長にこれを提出しました。
市への財政支援総額は不明ですが、市からの回答は月に十五円十三銭五厘の補助との事で、運営に充分な金額とはいえず、吉田惟清らは市へ再度の検討を迫りますが相手にされません。それではと市に商工会を設立してその附属として学校の維持をするという会則草案を添えて、再度陳情を試みますがこれも相手にされませんでした。
この結果、商議員石井覚助ほか9名が次のような請求書を市参事に提出します。
「政府は明治23年9月法律第81号にて商業会議所条例を発布し商工業上必要な地にはこれを設立し(中略)商政の一部を担任して商工業の進歩発展を図るとあるが、久留米市にこれを設けないのは以前から遺憾であった。今や日清開戦が起こり国家の富源を開拓しようとするには個人単独の力によるものではなく、協同一致の集合を組織しなければ、富源の開拓を行うことはできない。これは則ち商人の健全なる一団結をしようとするのを止めるべきではない。(中略)商工会と私立久留米商業学校の二者は共に前段の目的遂行には必要で欠かせないものである。我ら商議員9名は、市会がこれを成立補助することは充分に価値があることだと考えるが、市はすでに経費予算は決まっており、これ(私立久留米商業学校)を助ける金はないという。(中略)幸いにもこれまでの市費で補助してきた日清貿易研究生は今回の戦争で帰国したので、その余剰金を商工会設立と私立久留米商業学校の補助に充てて、商業学校校内に商工会を置き全校教員を商工会の書記と兼務としたいので、速やかに市会を開き全会の議決を得たい」
しかし、この請求も市会に取り上げられず10月18日に櫛原銀行ほか6法人の寄付も止まり、私立久留米商業学校は翌年の明治28年に入ってから姿を消しました。
私立久留米商業学校に改称してわずか約半年後のことでした。
5.実業学校設立へ
私立久留米商業学校を救済しなかった久留米市は、実業教育をどう考えていたのでしょうか。
久留米市教育支会では、私立久留米商業学校の灯火が消えようとしていた12月1日に実業教育の必要性を認め、市は商工何れかの学校を設立すべしという主旨の建議を提出していました。
「建議
本市で実業教育を行うには工商いずれの方針をとるべきか、且つ学校は、手工科商業科もしくは工商専修科を高等小学校教科目中に加えるべきか、又は工業補習学校もしくは商業補習学校を高等小学校に附設するべきか、又は工業学校・徒弟学校・商業学校等を独立して設けるべきか精確な調査を行うことを市長に建議する。
右建議候也
明治二七年一二月一日 会員 細見 保」
この建議書を受けて1985年(明治28年)3月に久留米市会は実業教育調査を行うために28年度歳出追加案において実業教育調査費60円を久留米市教育支会に委託することを可決します。教育支会は4月16日に総会を開き、実業教育調査委員14名を選出しました。委員の構成は市会議員5名、一般2名、各学校校長5名、市役所2名の14名です。この中には、私立久留米商業学校主監の吉田惟清や後援者の古川正二郎、臼井正三郎、また久留米商業学校への改称にあたって助力した久留米市助役の石田瑞穂らが加わっていました。
調査委員会は5月から11月まで7回開催され、名古屋、大津、大阪、神戸、尾道、熊本、長崎、有田の実業学校を視察して報告書にまとめて久留米教育支部会長の三谷有信に報告し三谷会長はこれを受けて久留米市長の田中茂五郎に次のように報告しています。
「調査(原文は取調)委員15名を選定し東は愛知県から西は長崎県まで各地の商工業に係る実業教育の実況をしたが、我が国の工業教育は政府の種々の奨励があるにも関わらず(内容が)幼稚でこれを設ける地方は甚だ少ない。稀にあっても単純な作業に含まれるもので特殊な事業(近代的且つ大規模な工場と思われる)を有している地方でなければ、多額の費用が掛かる割に生徒は少ないなど不経済と思われる。
久留米の情況に照らして観れば(工業学校は)尚早と判断せざるを得ない。(一方)商業教育は、各地既に設置されている所が多く、その学科の選定、教授の方法等は参考になるものが多い。また工業教育に比べて一般的であり応用範囲も広いので設立・維持の困難さは少ないと信じる。よって久留米市においてはまず商業教育を施設するのがよいとする。
まずは簡易商業学校を設置し先々完全な商業学校の基礎となることを希望する。
福岡県教育会久留米支部
明治二八年一○月 会長 三谷 有信
久留米市参事会
市長 田中茂五郎殿
- 規定せんと欲する要領(以下原文まま)
一、簡易商業学校を設置し商業に関する必須の教育を施し商務を処理経営すべきものを養成するを期す
一、修業年限を四ヶ年とする
一、尋常小学校卒業又は之と同等以上の学力を有し年齢一○年以上の者を入学せしむ
一、授業料は通して三五銭とす
一、教授学科は、修身、読書、習字、作文、商業地理及び歴史、算術、簿記、商品、体操、商業実習、外国語等とす」
実業教育調査委員会は簡易商業学校設立で教育支会に草案を提出し、それを受けて11月1日に臨時総会を開き討議したが結論は出ずに閉会となりました。
11月7日に小山健三文部参事官兼高等商業学校校長が実業教育費補助取調委員として福岡県で開催される九州各県師範学校長会議に来る機会に実業教育についての意見を聞くために久留米市三本松町回春楼(異説あり)に迎えたが、小山は、久留米市は商業地にあらずして工業地であると述べ、商業学校を建設するよりも工業学校を建設するほうが先であると述べて調査委員会の意見と齟齬をきたす結果となってしまいます。
小山健三文部参事官の工業学校を創るべしとの意見を踏まえて、11月14日に久留米高等小学校にて再び臨時総会が開催されます。
議題は原案の簡易商業学校設置案に加えて修正案3件が動議として提出されました。
討論の末、次のような結果となりました。
第一動義 商業補習学校を高等小学校に併設 賛成者数 21名
第二動義 工業補習学校を高等小学校に併設 賛成者数 8名
第三動議 中学程度の商業学校を設立 賛成者数 19名
原案 簡易商業学校を設立 賛成者数 2名
この結果により、久留米市教育支会の実業教育は、当初の簡易商業学校設立から後退して商業補習学校を高等小学校に併設することに決着し、その内容で市長に実業教育調査報告書が提出されました。
実業教育調査報告書
調査(原文は取調)委員15名を選定し東は愛知県から西は長崎県まで各地の商工業に係る実業教育の実況をし、数回の総会で審議研究した。本市の位置及び社会の趨勢に照らして工業商業の方針を選択すれば、将来においては工業教育の必要は商業教育に優れることを認めるが、我が国の工業教育は政府の種々の奨励があるにも関わらず(授業内容が)幼稚でこれを設ける地方は甚だ少ない。稀にあっても単純な作業に含まれるもので特殊な事業(近代的且つ大規模な工場の意味か)を有している地方でなければ、多額の費用が掛かる割に生徒は少ないなど不経済と思われるので、維持する目的が到底ないと思われる。その他にも調査の材料となるべきものも少ないので、軽々に工業教育を施設しその方法を誤ることがあれば後にその発達を害する恐れがあるので、さらに充分な研究の後にこれを実施したい。
しかし商業教育は、各地既に設置されている所が多く、その学科の選定、教授の方法等は参考になるものが多く、且つ市民営業上また必要な事業であると信じる。よって久留米市は商業教育を先にしてしかる後に工業教育に着手すべきと考える。
則ちまずは商業補習学校を設立し漸次商業学校となすと共に工業教育を施設されることを希望する。
左に取調書相添へ此段及報告候也
福岡県教育会久留米支部会長
久留米市長宛
- 規定せんと欲する要項
一、商業補習学校を高等小学校と併設し小学教育の補習と同じに商業に関する必須の教育を施し商務を処理経営すべきものを養成するを期待する
一、修業年限を三ヶ年とし尚一ヶ年の研究科を置く
一、尋常小学校卒業又は之と同等以上の学力を有し年齢一○年以上の者を入学せしむ
一、授業料は通して三五銭とす
一、教授学科は修身、読書、習字、算術、作文、商品、商業地に関する習慣及法令大略等
(費用明細省略)」
以上の報告書を受けて久留米参事会は12月に次のような諮問案を支会に提出しました。
実業教育設置及高等小学校女子部教場分設諮問案
「(前略)該報告に就き熟思するに本市の目下の情況に照らし適当の方法であると信ずる。依ってまず現高等小学校舎を両分して商業補習学校を併置し漸次経験の上改良拡張すると共に工業教育の施設に及ぼそうと思う
明治二八年一二月 市参事久留米市長」
こうして、工業学校設立は、商業補習学校が商業学校に発展したのちに設立を検討しようという結論になりました。
7.商業学校設立案へそして簡易商業学校へ
市長からの諮問を受けて久留米市会は4日間の討議を行った結果、諮問案に賛成する者よりも、諮問案に反対して独立の商業学校を設置して、中学程度の商業学校設立を希望する者が多数を占めて商業学校設立案とする事が決まりました。
商業補習学校案が否決された理由を当時の新聞記事で見ると、「程度が誰にでも分かる内容で卒業後に到底商業上の経営に於いて何らの功もなきものになることを断定せしめて」とあり、授業内容が初歩的過ぎるという判断になったと思われます。
商業学校設立案に決定した後、商業教育の程度の議論に入り、吉田惟清の発議によって、高等小学校二年級卒業以上の学力のある者を入学させる中学程度の商業学校を設立する事を全会一致でついに決定しました。
この時の議論経過を報じた「福陵新報 明治三○年九月八日付」の記事が次のように報じています。
「(前略)更に別な調査によれば簡易商業学校でないならば、国庫の補助金は請求できないとの説明があり、簡易の二文字を冠する事になった。(中略)荘島町集会堂を仮校舎に当て五月二日開校せり。当時の生徒総数は五○名、教員は二人にして後九月一日現今の校舎に移り一一月二七日開校の式を挙行せり」
こうして、私立久留米商業学校が開校した後、紆余曲折を経て市立久留米簡易商業学校が創設されました。
しかし、商人教育が現場主義であった当時、商業教育の必要性が浸透していない状況にあって入学志願者の確保に苦しんでいました。
この状況が改善するのは、第四代校長に久留米市出身の浅野陽吉を招聘してからです。この校長の評判で入学を志願した者も少なくなく、その一人に大先輩の石井光二郎もいました。
【参考文献】
久商百年史 久商百年史編集委員会
弁護士が関わった時代背景
1.明治初期の簿記学習ブームと商家の帳合法
明治の文明開化は、1873年(明治6年)に、新国家建設に呼応して、その住人を作り上げることを目的とする啓蒙思想家たちにより結成された明六社の結成時期が始まり*1とされています。その一員であった福沢諭吉の著した「西洋事情」という本により、欧米の政治、法律、社会制度、経済、学校、新聞、各種病院、蒸気機関、蒸気船、伝信機、瓦斯灯などの、わが国よりも進んだ西欧文明が世間に知らされました。この本は当時の人たちに広く読まれて、また、明治5年9月の小学教則交付時には小学校の標準教科書にも採用されています。日本が近代国家を形成する過程の中で、その手段として文明開化は大きな役割を果たしました。

明治新政府は、欧米列強に追いつけ追い越せと富国強兵、殖産興業を推進し、西欧諸国の政治、経済や産業などの制度や技術を積極的に取り入れ、国策による産業資本の育成が進められていきます。また、それと同時に、欧米から機械設備、技術制度指導のための指導員とともに招かれた簿記会計の指導者により、西洋式簿記が我が国に入ってきました。

同年6月には、福沢諭吉が、当時アメリカの商業学校で使われていた簿記教科書を翻訳して「帳合之法」として出版し、企業経営にとって不可欠なものであることを社会に周知します。この本により、古来より商人の実務として行われており、学問ではないかのようにみられていた「帳合」注1が、新しい学問として認知されるようになります。この時に出版されたのは初編2冊で単式簿記でした。翌年6月に二編2冊「本式ノ帳合」として複式簿記が出版されています。
そして、この「帳合之法」は、当時の小学校、中学校および師範学校の「記簿法」の教科書として活用されて、実務における簿記が学問であるとともに、企業経営にとって不可欠なものであることを社会に周知*2しました。
同年10月には、加藤斌(たけし)が英国の簿記書を翻訳して「商家必用」を出版しています。この本の序文には、元越前福井藩主松平慶永が、「ひとたびこれを世に上しなば、ただに商家の利益足るのみならず、そもそもまた国家富強の基なり」と寄稿していることから大きな期待を寄せていることが窺えます*3。この本も「帳合之法」と同様に、「記簿法」の教科書として用いられています。*4
さらに同年12月には、「銀行簿記精法」が出版されて、この本は「国立銀行条例」で設立された「第一国立銀行」で実際に使用されました*5。
簿記は国立銀行以外での実用化は容易に進まない中、簿記書は1873年から1886年の間に一説では80冊を超える本が出版されています。*5
また、東京都下の簿記学校は、1887年(明治10年)の26校から1890年(明治23年)には47校と大幅に増加しました。*5
神奈川県立図書館HPより引用
久留米でも、このような文明開化に呼応するように、1888年(明治21年)7月5日に、久留米簿記学校が開校して、官制・銀行・商法の3学科を教え始めます。さらに1891年(明治24年)2月2日には、大石貞傅が苧扱川(おこんがわ)町3丁目(現本町)に私立変則商業学校を設立しました。
このように、古くからの商家の習慣や大福帳などによる商いの方法が根底から覆される時が明治新政府によってやってきます。しかし、日本の帳簿付けが西洋の複式簿記に劣っているかというと、決してそのようなことはありませんでした。
豪商の中には江戸時代以前から使われてきた「帳合法」と呼ばれる、西洋の複式簿記にも劣らない優れた記録方法を有し、複式決算を行っていた商人がいました。それは、大坂の両替商鴻池家の「算用帳」であり、三井家の「大元方勘定目録」、近江商人中井源左衛門家では「店卸目録」などの財産計算と損益計算の結果が一致する複式決算の報告書を作成する商人もいた*6のです。この「○○目録注2」という言葉は、1890年(明治23年)の旧商法発布以来「財産目録」として重要視され、1974年(昭和49年)の商法改正まで作成が義務付けられていました。*7
やがて我が国固有の簿記方法も、文明開化の浸透によって複式簿記への変革を求められるようになります。和式帳合から複式簿記へ、漢数字からアラビア数字へ、「右から横書き」から「左から横書き」へ、縦行筆算から横行筆算へと、文明開化は当時の人々にとっては相当のカルチャーショックであったろうと偲ばれます。
【注釈】
注1 帳合 ①現金または商品の勘定と帳簿面を照合して、計算の正否を取り調べること。②帳面に記入すること。③損益などを計算すること。出典:広辞苑
注*2 目録 ①書物の中の内容の見出しを順序立てでならべたもの。②所蔵、出品されているものを整理してならべたもの。③進物の品々の名を記したもの。④転じて、実物の代りに仮にその品目の名だけを記して贈るもの。⑤進物として贈る金の包み。出典:広辞苑
【引用】
*1 明治初期の簿記導入史の研究 久井孝則 「文明開化は、概してその始まりを1871年(明治4)年に断行された廃藩置県の前後とみなし、それから2年後の1873(明治6)年、明六社の結成を『文明開化』の本格的な時期と位置づけている」
*2 わが国の中小企業における会計制度の変遷 小川晃司 小森清久 引用 P4
*3 わが国の中小企業における会計制度の変遷 小川晃司 小森清久 引用 P4
*4 わが国の中小企業における会計制度の変遷 小川晃司 小森清久 引用 P5
*5 明治初期の簿記導入史の研究 久井孝則 P138
*6 商法典の編纂と帳合法 田中孝治 「我国の江戸時代の商人も「帳合法」と呼ばれる進んだ簿記法を持っていた。豪商の中には、西洋の複式簿記に勝るとも劣らない優れた帳合法を有する者(家)があった。多くの帳簿を持って商業の活動を記帳し、『算用帳』・『算用目録』などと呼ばれる財産計算と損益計算の結果が一致する複式決算の報告書を作成する商人もあった。現在、その複式決算が確認できる最古の物が寛文十年(1670)の鴻池家の『算用帳』であり、期末正味身代(期末資本)を二重計算するものであった。―中略-鴻池家のものが『算用帳』というタイトルが付されていたためか、『算用帳』という名称が一般的に使用されることが多い。しかしながら、三井家では『大元方勘定目録』、中井家『店卸目録』、小野家『勘定目録』など、『目録』を付す商人も多い」
*7 商法典の編纂と帳合法 田中孝治 P100
【参考文献】
明治初期の簿記導入史の研究 桃山学院大学 経営学博士 久井孝則 著
日本における企業会計制度の変遷(1) 法政大学経営学会 菊谷正人 著
経営志林 第59巻2号 2022年7月
わが国の中小企業における会計制度の変遷 愛知工業大学 小川晃司 小森清久 著
商法典の編纂と帳合法 愛知大学経営総合科学研究所 客員研究員
田中孝治 著
筑波大学図書館 学制発布と明治初頭の教科書
2.明治時代の商人文化と法典編纂
久留米商業高等学校前史その1で述べましたように、明治時代の商家には、江戸時代以前から築き上げた独自の商習慣や制度がありました。久留米には当地ならではの商人教育の方法がありましたし、商習慣も独自の習慣があったことでしょう。
会社法が制定されたのちに設立された会社は複式簿記を採用しましたが、商家が作り上げた「帳合法」第二次世界大戦後に青色申告制度が導入されるまで存続することになります*1。
中小企業にとっては、従来からの「帳合法」によって日常業務に支障がなかったため長く使われることになりますが、1890年(明治23年)の商法公布により、帳簿の記帳義務が規定されると、従前の「帳合法」の改良型を推奨するような簿記テキストも現れて、それぞれの企業規模、状況に応じて会計処理が行われていました。
昭和初期に商工業の臨時産業局に設置された財務管理委員会が懸賞論文募集の案内文には「中小企業に於て商業簿記及會計制度の不完全なること、甚だしきは會計帳簿を全く有せざるものすら存在すること」との記載があることから昭和初期においても中小企業には複式簿記の普及がされていない*2と、記載されており、また同委員会が行った中小企業への帳簿実態アンケートでも「正規の帳簿を用いていると思わわれたものは2、3割であった」*3が現実でした。
このような根強い「商い」の文化がありながらも、当時の日本は、西洋の文化を積極的に取り入れて社会制度の欧米化を推し進めます。
その欧米化を進める最大の理由は、多くの文献にあるように、日本が欧米諸国に伍することで、徳川幕府が締結した欧米との不平等条例を改正し、欧米への従属的立場の解消にありました。
福沢諭吉は、その著書「文明論之概略」で世界の文明をこう述べています。
「今、世界を論ずるに、欧羅巴諸国並びに亜米利加の合衆国を以て最上の文明国と為し、土耳古、支那、日本等、亜細亜の諸国を以て半開の国と称し、阿非利加、墺太剌利亜(非と墺は原文のまま)等を目ざして野蛮の国といい、この名称を以て世界の通論となしー中略―即これ人類の当に経過すべき階級なり」として、欧米列強からみて日本は半開の国であるとしています。
また、19世紀後半の国際法学者ロリマーの説では、「世界は文明国、半開、未開の三種類に分類される。国際法の主体である文明国同士の関係は対等条約により規定され、文明国と部分的な政治的承認を受けた半開の国との関係は不平等条約によって規定され、残りのすべての地である未開の地は無主の地とされ、一定のルールの下で植民地化が認められる*4」となり、欧米列強との間に結ばれた通商条約は不平等なものであり、日本は半植民地の状態でした*5。
日本を文明国の主権国家として欧米に認めさせ、この半植民地の現状から抜け出すには、日本の習慣法を中心とする法整備ではなく西欧諸国の基準による国際法に合致する西欧式の法典を採り入れようとしたのです。
【注釈】
*1 わが国の中小企業における会計制度の変遷と発展 小川晃司 小森清久
「帳合法は第二次世界大戦後に青色申告制度が導入されるまで命脈を保ち、『中小企業簿記要領』にまで影響を与える結果となった」
*2 わが国の中小企業における会計制度の変遷と発展 小川晃司 小森清久
「商工業の臨時産業局に設置された財務管理委員会は、その原因とされた中小企業における簿記を問題として取り上げ、日本商工業会議所では、中小企業が行うべく簿記の様式について学者などに対し懸賞論文を募集している(太田[5]、155ページ)
その懸賞論文募集の案内文において『中小企業に於て商業簿記及會計制度の不完全なること、甚だしきは會計帳簿を全く有せざるものすら存在すること』との記載があることから昭和初期においても中小企業には複式簿記の普及がされていない」
*3 わが国の中小企業における会計制度の変遷と発展 小川晃司 小森清久
「『どんな帳簿を用いているか』とするアンケートに対して、『正規の帳簿を用いていると思われたものは2、3割であった(太田[5]、155ページ)』
*4 不平等条約の再検討-成立から強化へー 小風秀雅 p4-5
*5 不平等条約の再検討-成立から強化へー 小風秀雅
「換言すれば、不平等条約は、半開国が文明国として認められていないことを明示するものであった」
【参考文献】
不平等条約の再検討-成立から強化へー 御茶ノ水女子大学名誉教授 文学博士 小風秀雅 著
「文明」と「野蛮」の自他認識―近代日本の他者表象― 追手門学院大学教授 山口公一 著
明治期における法編纂事業と条約改正について 金沢大学教授 樫見由美子著
日本における民法典編纂の意義と今後の課題 学習院大学教授 岡 孝 著
明治日本の法整備事業とボワソナード 名古屋大学名誉教授 大久保泰甫著
明治日本の商法編纂 慶應義塾大学教授 高田晴仁 著
わが国の中小企業における会計制度の変遷と発展 愛知工業大学 小川晃司 小森清久著
3.明治時代の民法と商法の編纂
明治新政府は、徳川幕府が締結した欧米との不平等条例を改正するために、法典整備を急ぎました。明治初年から各種の近代法典の整備に乗り出し、明治4年から、江藤新平を司法卿に任命して法典編纂に着手します。
江藤新平は、箕作麟祥(みつくり りんしょう)にフランス諸法典の翻訳を命じて、そのまま日本の法典としようとして「誤訳も妨げず、ただ速訳せよ」と急がせたというエピソードがあるようです。
明治政府は、日本の慣習法を中心とした法整備ではなく、欧米の条約改正への理解を得たいがために、あくまで西洋式の法典の継受を指向していた*1のです。
しかし、明治日本には、欧米の法的学識の蓄積が未だ充分でなかったために日本人の力だけでは法典編纂は完成に至りませんでした。*2
日本人だけでは、法典編纂はできないとわかり、1879年(明治12年)3月にフランス人のボワソナードを民法典編纂のために、また、1881年(明治14年)4月にドイツ人のロェスラーを商法典編纂のために招聘しました。
因みに、箕作麟祥はナポレオンの5大法典、「民法典」「商法典」「刑法典」「訴訟法典(民事訴訟法典)」「治罪法典(刑事訴訟法典)」を全訳して「仏蘭西法律書」を1874年(明治7年)に著しています。*3
【引用】
*1 明治日本の商法編纂 慶應義塾大学教授 高田晴仁著 P61
*2 明治期における法編纂事業と条約改正について 金沢大学教授 樫見由美子著 P107
*3 明治日本の商法編纂 慶應義塾大学教授 高田晴仁著 P60
3.1 民法典編纂と公布・施行
ボアソナードが、来日から10年余の年月をかけて作成した財産編、相続部分を除く財産取得編、債権担保編、証拠編の民法典草案が1890年(明治23年)4月に、日本人委員が作成した人事(家族関係)、財産取得編中の相続部分が1890年(明治23年)10月に元老院の審議を経て通過し、枢密院の諮詢注1を経て公布され通過して民法典は完成し、1893年(明治26年)1月1日から施行されることになりました。
民法公布直前の、1889年(明治22年)5月に旧東京大学法学部および帝国大学法科大学卒業生による組織、法学士会が、法典編纂に関する拙速主義と慣習を無視した法典を批判する「法典編纂に関する意見」を発表して、民法施行延期派と予定通り施行せよとする断行派に分かれて2年半におよぶ論争が巻き起こります。
1892年(明治25年)5月、民法商法施行延期法律案が提出されて6月に衆議院で可決されると、1893年(明治26年)に法典調査会が設置されて、「規定と異なる慣習があるときは、その慣習に従う」というような条文が追加されました。特に、家父長制と家督相続制などわが国独自の制度を考慮した内容となりました。
1896年(明治29年)に、法律89号とし第1編総則、第2編物権、第3編債権が、そして1898年(明治31年)に法律第9号として第4編親族、第5編相続がそれぞれ公布され、1898年(明治31年)7月から施行されました。
これらのわが国の慣習を考慮した民法を今日では「明治民法」と呼ばれ、ボアソナードが編纂した民法は「旧民法」とよばれています。
【注釈】
注1 諮詢 ①問いはかること。相談。 ②他の機関の意思を参考として問い求めること。【諮詢機関】明治憲法下で、天皇の諮詢に応じて意見を上奏した機関。枢密院など 出典:広辞苑
【参考文献】
明治期における法編纂事業と条約改正について 金沢大学教授 樫見由美子著
日本における民法典編纂の意義と今後の課題 学習院大学教授 岡 孝 著
民法の意義(論文タイトル不明) 法律文化社
3.2 商法典編纂と公布・施行
明治政府は、商法の編纂にあたっても民法同様に日本の慣習法を中心とする法整備ではなく、欧米の条約改正への理解を得たいがために、あくまでも西洋式の法典の継受を指向していました。*1
1881年(明治14年)に、ドイツ人のロェスラーが法典編纂を始めます。
商業に関する法律でも、「日本人民ノ商業及ヒ物產上ノ力ヲシテ世界中各通商國ト平等ノ地位ヲ得セシメントスル」*2ことと「日本ノ商業及ヒ物產上確實ニシテ完全ナル基則アラシメ」*3る目的のために、日本の商慣習を編入せずに作られていきます。
ロェスラーは、イギリス、フランス、ドイツをはじめ、めぼしい先進国の立法例は片っ端から参照して、そのいずれにも偏らない混合的な最新法典を目標*4に書かれた草案であったようです。
1890年(明治23年)にドイツ人のロェスラーの草案にもとづく旧商法典が立法化(法律32号)して公布され、1891年(明治24年)1月から施行すると決まりました。
しかし、民法同様に、日本の慣習法を入れていない点および一般法である民法典より先んじて特別法である商法が施行されるのは不都合あるなどの延期派の指摘その他があり、施行は延期されます。
法典調査会が組織されて、日本人の手で修正し、且つ民法典との一貫性をもった内容での新商法が作られました。
新商法は、1899年(明治32年)4月に公布され、同年6月に施行されました。
【引用】
*1 明治日本の商法典編纂 高田晴仁 P61
*2 法律情報基盤 旧商法 ロエスエル草案 和文草案 より引用
*3 法律情報基盤 旧商法 ロエスエル草案 和文草案 より引用
*4 明治日本の商法典編纂 高田晴仁 P63 この点は、「商法典の編纂と帳合法」田中孝治著P109でも「英独仏法などの混合体であり」と述べている。
【参考文献】
明治期日本の商法典編纂 慶應義塾大学教授 高田晴仁 著
商法典の編纂と帳合法 愛知大学経営総合科学研究所 客員研究員 田中孝治 著
あとがき
こうして前史をまとめ、明治時代の文明開化と照らし合わせる作業を終えて感じるのは、文明開化の名の元に、西欧の会計処理方法や、日本固有の習慣法も一部加味されたとはいいながらも民法・商法などの西欧式の法典の施行により、商いから商業に変わりゆく時代の流れを読み取り、進取の志で商業教育の扉を開いたのが、弁護士だった松田正定と吉田惟清であったことは、当然のことであったという納得感を感じざるを得ません。
吉田惟清弁護士が、私立久留米商業学校設立の主旨で語った「進取の気力を刺激し奮い立たせてこの機運に乗り、広く社会の状況を見極めて改良進歩の効果をもたらすべきである。しかし、これを今までの商工業者にのみ任せるのでは進歩は遅くなるばかりである。」との言葉の意味は、過去の商習慣に頼る今までの商工業者に任せていては、商いの西洋化という大きな変化の波に乗り遅れる。文明開化の進展をみながら変化を先取りして対応するべきであろう、ということではないでしょうか
独特の商人教育方法を習慣として確立し維持していた久留米商人は、この変化に適時にうまく対応できたのか、また、久留米が筑後商域圏の商都となり得たのでしょうか。
もしも弁護士だった松田正定や後を継いだ吉田惟清が、商業教育の必要性と商業学校を設立する意義を唱えなかったら、そして、もしも二人の新しい考えを周囲の市会議員や実業家達が認めなかったとしたら、今の久商は存在し得たのだろうかと思います。
古くからの習慣の中に浸かっていると周りの変化に気付かず手遅れになることはよくあることです。過去の経験や習慣・前例にとらわれることなく、常に情況の変化をつかみ、進取の気持ちを持ち、信ずるものを実現しようとする志を持ち続ける事の大切さを二人の弁護士から学びたいものです。
大志を抱いて、新たな道を拓こうとした二人の弁護士こそが「図南の心」をはじめに体現した人物であると思う次第です。
「図南」とは、広辞苑によれば、「(鵬が南方に向かって翼をひろげようとする意)遠征を試みること。転じて、大事業をくわだてること。図南鵬翼。」です。また、「図南の翼とは、ある地域に向かって事業を試みようとする計画。」と記載されています。
西洋列強と肩を並べて、海外へと商いの道を拓こうとする志を「図南の翼」として校歌に入れられたのではないでしょうか