第五代 櫛原校舎 -明治時代-
自1903年(明治36年)7月16日 至1949年(昭和24年)7月5日
荘島校舎からの移転経緯
第四代荘島校舎から櫛原校舎への移転は、荘島校舎が未決監跡を改築した校舎で、狭く、設備も不十分であったので第4代校長の浅野陽吉が市当局へ再三陳情して1901年(明治34年)12月7日の市議会で三井郡櫛原村への移転が決議されました。
1903年(明治36年)度には、浅野校長の努力により職員数16名、学級数8クラス、生徒数250名に達していました。

正門から校舎を望む 校舎と蘇鉄

校舎全景


実践室にて授業風景 大樟 この樟の南に学校が位置したので樟南
移転時の回顧談
石井光次郎(10回生)
荘島町の旧校舎から、新たに出来た櫛原町の校舎に机を担いで移転したのは私の1年生1学期が終った夏休み中のことであった
大坪徳太郎(10回生)
36年4月から1学期が了って、暑中休暇の済んだ第2学期には、櫛原の新校舎に移った。後々、櫛原中学となった所。古い学校からペンキ塗りの校舎、生徒控室、講堂、特別教室、商品室もあり、運動場は広いし、大楠のある隣の庭園はあるし、別世界に入ったような気がした。以上「創立80周年記念誌」より抜粋
浅野校長辞任
1904年(明治37年)1月16日に、浅野校長は辞職しました。校長を退任した後は、衆議院議員を通算3期勤め、市制地としては唯一ランプを使用していた久留米市に久留米電灯会社設立運動を起こし、また第18師団誘致にも尽力して、久留米市の発展に努めました。議員を勤めた後は、大阪朝日新聞社に入社し、発明家田中久重の功績を「機関儀右衛門」と題して連載し、教科書にも取り上げられました。また、「成金」という造語も彼の作です。
晩年は、久留米市に戻り、郷土史家として「筑後郷土研究会」を結成。久留米の幕末維新伝『十志士の面影』『久留米藩海軍史』『筑後陶磁考』など多数の著書を残しました。
【参考文献】
図南の翼 久商百年の群像 前田英男・梅津健哉 著
山田静三教諭が校長に昇任
1904年(明治37年)2月12日に山田静三が第5代校長に昇任しました。
1897年(明治30年)に高等商業学校を卒業して、本校の教諭からの昇任でした。
1907年(明治40年)5月16日まで勤められました。
第6回卒業生と袖口の白線
1904年(明治37年)3月29日に第6回卒業生の卒業式が行われました。
卒業生総員29名で、内訳は久留米市内8名、三井浮羽八女三潴各郡7名、その他福岡県内11名、県外3名で、県外の卒業生3名の出身は、大分県東国東郡、熊本県熊本市、佐賀県東松浦郡と遠方からはるばる学びにくるほどに、本校の名は知れ渡っていたようです。
この第6回卒業生の卒業写真には学生服の袖に白線が見えており、第4回卒業生の袖には見られないことから、この頃から正式に着けられたようです。なお、第5回卒業生の卒業写真には胸から上しか映っておらず、第5回卒業生の袖口に白線があったかどうかは不明です。
太田徳次郎校長心得
1904年(明治37年)9月21日、この年8月に福岡十七銀行を退職した太田徳次郎が校長心得となります。正式に第6代校長に就任したのは翌年10月です。
但し、就任時の記事が百年史になく、就任日は不明です。太田校長は、1907年(明治40年)5月16日まで勤められました。
| 太田徳次郎校長明治2年 博多上東町生まれ。明治24年に高等商業学校を卒業して、26年自営酒販売業や博多織業に従事するが、30年小樽北海銀行に就職。小樽倉庫、福岡十七銀行を経て、本校校長心得になる。翌年校長になる。本校では、2年9ヶ月と短い在任であったが、名校長の誉れ高く、石橋正二郎、石井光次郎を育てた。明治40年5月に福岡商業学校校長に就任。本校離任後も教え子を思う気持ちが強く、石橋正二郎に博多の太田惣三郎の長女を媒酌した。 |
本校設立10年記念
1905年(明治38年)5月5日に、本校設立10年記念として、大運動会を挙行しました。
また、5月21日正午から、開会を知らせる3発の花火を合図に、萃香園で来賓として市内各官庁、銀行、会社社長、商議員、実業家、その他各新聞記者等数十名が参列して盛大に開催されました。その時の余興として、浪花節、筑前琵琶、仁和加、奇術その他が催されたと記録されています。
浅野陽吉氏 10年記念祝辞
-前略-今や諸君は卒業し、社会の各方面で活躍しておられるが、年々同窓会を開いて旧交を温め、且つ知識を交換して発展向上の道を考えることは思うに集団力が極めて偉大であることを感じるところである。-中略-願わくば諸君はますますその団結を固くして、謹んで年長者の指導助力を仰いで、共に和し、共に助けて一丸となって事にあたり、確固たる地位を占められることを(願う) 創立70周年記念誌より 現代文訳
第3回講演会
1905年(明治38年)6月29日に、本校講堂で生徒有志が参加して、第3回講演部大会が開催されました。この講演大会は、講演部へと発展しますが、この講演部(創立80周年記念誌での石井氏の回顧談では弁論部)を作ったのが石井光次郎でした。
石井光次郎は、他にも生徒の風紀を正す興風部を作ったり、有志と武田令太郎先生と共に「行余」という作文、歌、俳諧を掲載する雑誌を刊行したり、仲間5人で「蟻軍」という和歌の回覧雑誌を作ったりと、勉学と柔道に励む傍らで文芸にも励んでいました。因みに、行余とは、「行って余りあれば即ち以て文を学ぶ」の意味となります。
| 70年の昔語り 石井光次郎氏 創立80周年記念誌 寄稿文より抜粋-前略-商業学校にも柔道部を起こしたいと友人連(まま)を誘い、南筑武術館に通い、やがて商業学校に柔道部をおいてもらった。勿論大将であった、卒業の頃には筑後の学校では私が一番強いとりてとなっていた。次にクラブ活動として、弁論部を設けて主導をとり自ら演壇に度々立って、幼稚な議論を臆面もなく、やったものである。学生の気風を盛んにし、久商生は模範学生といわれるようにしようと、話し合って興したのは興風部で、学生がこっそり便所などで煙草を吹かしているのを引っぱり出して、又やったら殴りとばすぞなどと柔道の武威をふりまわしたものであった。そのようなクラブ活動の外に、-中略-和歌の回覧雑誌「蟻軍」をつくったり、俳句の集りをしたり、武田令太郎先生の指揮で「行余」という文学雑誌を出したり、文学青年らしい動きをしたものであった。私共の時代には、学校の活動は学業以外、殆ど私達学生が中心になって行われたといっても良い程に、学生は活溌に動き廻ったものであった。 (原文のまま) |
1906年度(明治39年)入学試験
受験者数 221名 合格者 62名
商業学校予備講習会
商業学校予備講習会は、我校入学志望者の為に、本年(1906年)5月より、市外西久留米の地に創設せられたり、今春我校の入学試験を行ふや、応試者実に募集人員の四倍に満ち、為に高等小学卒業生にして尚目的を達し得ざる者多数、これ等不幸者の要求よりして同会は起これるなり是盖し時運の然らむる所にして、我校の盛運を表明すへき現象といふへし、吾人は同会の創設を喜ふと共に、我校の将来を祝せむ。(同窓会誌第12号 原文のまま)

第10回生のコート姿(1907年頃)
定員300名に増員される
1907年(明治40年)4月に、太田徳次郎校長は、本科4学級、予科4学級、定員300名に増員されました。
古林喜代太 第7代校長に就任
1907年(明治40年)8月10日に就任されました。以降18年間在籍されて、校長の「着実勤勉」の教育方針は、卒業生を受け入れた企業から肯定的な賛辞をもらうなど久商と久商生の評価を高められた校長です。この「着実勤勉」は、久留米を中心とする筑後人の通有性である真面目によく働くという長所をより増長させようとしたもので、その意義を生徒に明確に理解させることに勤められました。また、古参の教師と新任教師との軋轢を解決されて学校を安泰なものとされています。1909年(明治42年)には清(中国)語科を加えられました。1924年(大正13年)3月31日に退任されました。
【参考文献】創立70周年記念誌 P170
金沢来蔵中学明善校校長が、「久留米と数学思想」について講演
1908年(明治41年)2月15日に、本校で「久留米と数学思想」について講演しました。
-前略-7代藩主有馬頼徸公が-中略-拾璣算法を著されたるが、其中に関(孝和)の秘法を詳載せられしにより、(90年間世に知られることのなかった関孝和の点竄術が)初めて天下に公示せられ-中略-(また頼徸)公の数学に関する記事は大日本数学史中の数箇所に散見し-中略-その後戊辰前、日本のニュートンとも言ふべき田中儀右衛門出でて蒸気船を製造し-中略-亦万年時計及び久留米絣機械等を発明し我国の工芸に貢献すること鮮からず、-中略-其他久留米には古今となく幾多数学の大家を出だしたるは蓋し偶然の故にあらざる也 ()内加筆
神戸高等商業学校へ3名合格
1908年(明治41年)石井光次郎、権藤貢、松岡若太郎の3名が神戸高等商業学校(現神戸大学)へ合格しました。この後、本校の進学者は年々数を増やしていきます。
| 野球術語について 同窓会誌第16号-前略-最初に新聞や雑誌の記録を読むに必要なる言葉から初めて(まま)他に及ぶ事とする△マッチ・・・試合の事である、試合も普通のマッチと敵味方混合して試合するミツキス即ち聯合*試合等がある、△早稲田方は白のユニホーム勇ましく、と云ふ様に書いてあるユニホームとは即ちワセダと横文字で書いてある運動服の事である、△プレート・・・之は投手板と訳してある投手の必す此上から投ぐべき処である△シート・・・各選手自身の持場である吾輩のシートがHBである様な風である-後略- 原文のまま*百年史では聊合としているが、文意から聯合とした |
本科に清(中国)語加わる
1909年(明治42年)4月から第二外国語として中国語が加わりました。背景には、日清・日露の両戦争に勝利して以降、大陸との関わりが深くなったことがあげられます。この年の9月には清国との間に日清条約が結ばれます。
校友会規則の改正による部活動の変化
1909年(明治42年)に校友会規則の改正があり、校友会組織に柔道部と講演部が新たに加えられました。
1898年6月 野球部、庭球部、撃剣部、編輯部、会計部
1909年 野球部、庭球部、撃剣部、雑誌部、庶務会計部、柔道部、講演部
この頃の通学風景
久留米以外の大牟田、佐賀、佐世保、唐津、日田町の方面より下宿している人も多く、また市外の鳥栖、小郡、草野、大善寺、城島地方二、三里の道を毎日徒歩で平気に通学する人もあった。(自転車の流行始めでトテモ珍しく1時間3、40銭で時間借りの稽古、久留米市内にも僅かに数台、ハイカラ紳士否モダンの尖端を行く人士の贅沢物で学生の通学用等夢にも考へられぬ時なり)原文のまま
創立70周年記念誌 「二十五年前」晴 風生(第12回生)
【参考資料】
明治時代の櫛原校舎の学級数・職員数・生徒数の推移
| 年度 | 学級数 | 職員数 | 生徒数 |
| 1904(明治37)年 | 8 | 17 | 249 |
| 1905(明治38)年 | 8 | 17 | 250 |
| 1906(明治39)年 | 8 | 17 | 258 |
| 1907(明治40)年 | 8 | 18 | 287 |
| 1908(明治41)年 | 8 | 18 | 324 |
| 1909(明治42)年 | 8 | 19 | 323 |
| 1910(明治43)年 | 9 | 19 | 302 |
| 1911(明治44年) | 9 | 19 | 310 |
久留米商業学校一覧大正14年度による 創立70周年記念誌